ファイティング・オペラ

 ハッスルについて書かれている記事をふと読んだ時に「プロレスイベント」という単語が目に飛び込んだ。「何言ってんだハッスルはプロレスじゃねえよ」と思いつつ何となくハッスルのwikiを見てみたら「ハッスル(プロレス)」と表記されていて愕然とした。
 「ハッスルはプロレスではない、ファイティング・オペラだ」という高田総統の言葉は、その意図は別にしてプロレスファンにとってはプラスに働いた。プロレスとは別の物、と思うことであのくだらない茶番劇は俺たちの好きなプロレスとは関係ない、プロレスは汚されない、とプヲタの存外繊細な心を守ることができたからだ。当時のプロレスマスコミの拒否反応が凄かったこともあり、純プロレスとハッスルはプヲタの脳内で完全に住み分けがなされるようになった。当時から「こういったモノも含めてプロレスなんだ」という境地に達しているプヲタもいるにはいたが、圧倒的少数派だったと言える。
 しかしそういったプヲタの理論武装*1も虚しく、当初から世間はハッスルをプロレスの一種と認識していたようだ。芸能人に混じってプロレスラーが参戦し、プロレスマスコミが何だかんだでハッスルを扱ったことも「ハッスル⊂プロレス」という認識に拍車をかけたのかもしれない。そういった世間の風潮やプロレス雑誌に平然と載るハッスルの記事に次第に慣れていったプヲタの中には「もうハッスルもプロレスでいいよ」と諦観してしまう者も出てきた。ハッスルからプロレス的世界に足を踏み入れる物も出てくる頃になると、逆に「ハッスルを肯定できず純プロしか認めない奴はダメ」みたいな意見すら出るようになった。全日のリングでも芸能人があがってハッスル的なモノを見せるようになって来ると「もうそういう時代なのかなぁ」と諦めざるを得なくなった者も増えてきた。「馬場さんが見たらどう思うだろうね」と言う古参のファンも少なからずいたが、多くのプヲタは「それはそれ、これはこれ」と何らかの形で妥協していった。
 しかし改めて「ハッスルはプロレス」と書かれることには抵抗がある。それはプヲタとしての誇りのようなモノである。プヲタの心の中には各々が「これぞプロレス」と感じた最高の試合の思い出が詰まっていて、プロレスと言えばそれがまず思い浮かぶのだ。ハッスルはプロレスの一部なのかもしれないが、「プロレスと言えばハッスル→くだらない」なんて思考をされると、自分の好きな「プロレス」を汚された気がして我慢がならないのだ。だからなるべく世間にはハッスルをプロレスと呼んで欲しくないわけで、今回みたいなことがあると何となく嫌な気分になるのである。
 更にショックなのはwikiの記述である。wikiを書こうなんていう人はその項目について基本的に好きでなきゃやってられない。アンチ丸出しな記事を書くならその限りではないが、少なくともハッスルのwikiに関してはそういう感じではなかった。つまりコレを書いたのはハッスルのファンだと考えていい。そのファンがハッスルをプロレスと表現してしまう。高田がプロレスという古い殻を破って新たな表現を生み出そうとして作った「ファイティング・オペラ」という言葉。彼は古いプロレスを否定したかったのかもしれないし、「プロレスと違う」ことをアピールすることで古いプロレスをあるいは守ろうとしたのかもしれない。だが皮肉なことにその言葉が届いていたのは古いプロレスのファン達だけであり、世間はいざしらずハッスルのファンですら「ハッスル⊂プロレス」という認識から逃れられなかったのである。「ファイティング・オペラ」とはもはや「プロレス」との違いを表す言葉ではなく、「ハッスルというプロレスを示す表現技法」でしかないのだろうか。

*1:ターザン的に言えば感情武装に近いが